南風原陸軍病院跡

南風原十字路から、県道5号を東風平へと下る途中、左手に小高い丘が見えてきます。
かつてこの丘に、南風原陸軍病院壕がありました。
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師範学校女子部と第一高等女学校の生徒約200名は、
軍の命令により、1945年3月24日この地へ動員されました。
3月29日、丘の西にたてられた三角兵舎での卒業式のあと、
本部・経理部・第一外科・第二外科・第三外科・一日橋分院・識名分院へと配置されます。
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4月1日米軍上陸。
次々と運ばれてくる負傷兵たちの阿鼻叫喚の中、看護女子学生たちの戦いが始まりました。
壕の中は狭く、血と蛆と膿の臭いでむせかえっていたそうです。
不十分な医療器具、麻酔無しの手術。重症患者たちは、次々に死んでいきました。
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5月25日、軍の南部撤退にともなって軍病院にも撤退命令が下ります。
すでに輸送力は低下し、食料や医薬品も不足していた軍は、
重傷患者に青酸カリや手榴弾をわたし、自決を強要しました。
梅雨空の中、雨と泥にまみれ、島尻を目指した死の撤退が始まったのです。

南風原町役場前の道を少し南下すると左手に「悲風の丘入口」と書かれた看板が目につきます。
その向こう側には黄金森と呼ばれる小高い丘が見えます。
車はここまでしか入れないので、この看板の前に駐車し、
丘を登っていくと、案内板の脇に「悲風の丘」の碑が立っています。
この碑は1966年に佐藤元首相によって建立されたものであり、
これ以降、英霊顕彰の名の下、戦時の事実が美談へとすり替えられてゆくことになります。

「悲風の丘」の碑に隠れるように立つ「南風原陸軍病院壕趾」の碑。
1953年南風原村によって建立されました。
「重傷患者二千余名自決の地」の碑文が見えます。
自分で歩けない患者には青酸カリや手流弾を与え、自決とは名ばかりの死の強要であったそうです。
写真右は壕内部。部外者は入れないため、壕の外から撮影したものです。
2m×2mの坑道を木製の坑木で補強していました。ベッドは木製の2段ベッドでした。

20号壕は、病院壕としては最も大きなものでした。
全長50m、西側にある24号壕側へとつながる貫通壕といわれています。
1990年南風原町の文化財に指定され、調査・発掘が進められており、
出土した品は近くの南風原文化センターに展示されています。

24号壕入口
現在見られる壕はこちらだけのようで、20号壕の入口は見当たりません。
内部は全長36mで行き止まりとなり、未完成のまま終戦を迎えたようです。
入口は、落盤によりかなり高い位置になっており、中には入れません。
南風原文化センター
南風原陸軍病院跡から掘り出された遺骨・遺品などを収集・展示しています。
