豊見城第24師団野戦病院跡
海軍司令壕に隣接する豊見城城址公園の中にも野戦病院の跡が残されています。
この壕は、第24師団山部隊の野戦病院の跡です。
ここには、浦添や首里からの負傷兵が次々に送られ、当時600人以上の者負傷者がいたそうです。
この野戦病院には、私立積徳高等女学校の看護学生が配属され、負傷兵の看護にあたっていました。
5月25日、米軍の侵攻とともに軍はこの壕を捨て糸洲の轟の壕へと撤退しますが、
看護学生の仕事は日を追うごとに過酷になっていったそうです。

豊見城城趾の斜面にぽっかりと開く病院壕の入り口

壕の全長は300メートル。戦後1/3が復元されています。

壕の内部には、もと看護隊の方の証言が掲げられています。
| 平林軍医の「蛆・療法」の話 積徳高等女子学校学徒看護隊 上原 利子(旧姓・志伊良) 衣服についたしらみは南部で捕虜になってあともなかなかはなれなかった。 病室でしばらく立ち止まれば、モンペのすそにはいあがってきて、足ぶみしながら払いのけなければならなかった。 多くの負傷者は、日夜汗と泥にまみれ戦い続けて、小動物もともに病院へ運んできた。 包帯交換を待ち続ける患者の傷はほとんど蛆がついており、中には包帯の上からもチラチラと頭をのぞかせて・・・つまんですてる・・・その人々の傷をあけると深い傷口には無数の蛆が蜂の子のようにびっしりで消毒液をおとすと、すばやくうちにひっこむもの・・・はいだしてポロポロこぼれるもの・・・いちいちピンセットでつまみ出すには間にあわず、ガーゼでこすぎ落とす・・・しかし次の包帯交換にも同様に頭を並べていっぱいつまっている・・・のくり返しであった。 けれども、その傷口は蛆が膿血をすうためにきれいで、傷をもつ者は「痛い」と訴え、また私たちは肝を冷やしながら治療に当たっていると、平林軍医はなぐさめともはげましともつかない「蛆治療もあるのだよ」と言われた。 また負傷者は、泥をかぶった砲弾破片創が大部分で、全員に破傷風の予防注射をした。ところが発病した者に多量の血清を使用するには足りなくて、胸を痛めながら死を待つのであった。ガス壊疽(エソ)患者も同様で、痛みと臭気をともなって身体の一部がみるみるうちにドス黒く腐敗していき、死をみつめて時を待つ姿もあった。 戦争は実に惨酷だと思う。ぜったいに二度と繰り返してはならないことだ。 日暮れになって交換したガーゼ洗いもつらいものだった。包帯は勿論、ガーゼも再生して使用した。山と積まれたガーゼは、時間がたつと蛆もますます増えて、棒きれで味噌樽の洗い桶にかきいれて下の川の流れに行き、クレゾール液を使って何度も蛆を選択してから、井戸に行き洗濯した。それは、たえずふってくる照明弾や砲弾におびえながらの作業だった。 |