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浦添城趾・前田高地

米軍に「死のわな」と恐れられた嘉数高地の東側
首里を後ろにひかえた場所に前田高地があります。
第32軍は、浦添城趾を中心としてこの前田高地に防衛陣地を築きました。
この場所が落ちることは、すなわち本部壕の置かれた首里が標的になることを意味していました。
日本軍も必死だったのです。

嘉数高地を占領した米軍は、4月26日に前田高地への攻撃を開始しました。
日本軍は、前田高地北側にある為朝岩から南側に壕やトーチカを築いて反撃しました。
米軍の攻撃は激しく、5月1日には前田高地南側の仲間部落から
首里側の浦添国民学校(現・浦添小)へと進撃しました。

5月6日前田高地が陥落すると、米軍の攻撃は首里の陸軍司令部壕へと向けられました。


  
前田高地から海側を望む。嘉数高地の展望台が見えます。(左)
当時はここから見える海が、米軍の艦隊で黒く染まったといわれています。


  
米軍がニードルロックと呼んだ為朝岩。(左)
艦砲射撃の目標となったため、着弾をまぬがれ今も当時のままの姿が見られます。
前田高地の背後を望むと、すぐ側に首里の高台が迫っているのが分かります。(右)


  
崖沿いに「前田高地平和の碑」が建てられています。
かつてはここも平たんな場所ではなく、もっと手前まで崖が迫っていたようです。
米軍からの艦砲射撃により崖が削られ、現在の景観となりました。
平和の碑のすぐ横に、いくつもの陣地壕の跡が見られます。

  
浦添城趾の遊歩道にぽっかりと口を開けるティーグガマ。(左)
実際には海側からの攻撃が激しく、陣地としてはあまり機能しなかったと推測されます。
ティーグガマの中から外を見る。(右)
砲弾の飛び交う空を兵士たちはどんな思いで見つめていたのでしょうか。


浦和の塔周辺


浦添え城趾内をティーグガマから先に進むと、「浦和の塔」が建てられた祠が現れます。
ここには、前田高地で戦死した遺骨およそ5000柱が奉られています。
「浦和の塔」という名称は、全国津々浦々の平和を祈るという意味だそうです。

  
浦和の塔の真下に遺骨の奉られた壕があります。


浦和の塔から首里側の斜面に降りると、こちらにも多くの自然壕が見られます。
ティーグガマなどの海側の壕は艦砲射撃の標的となったため、
兵士たちは日中はこちら側に隠れ、夜間ゲリラ戦を展開したと考えられます。



島袋氏のお話
浦添城趾でお会いした島袋氏から、当時の貴重なお話をお伺いしました。
ここでは、その一部を紹介したいと思います。

ここを見て下さい。50年もすると、木というのはこんなに大きくなるのです。
ここは、戦争で1本の木も残らず吹っ飛んだのです。
だから、ここに生えている木はみんな50年かかって成長したということになります。
ここにころがっている石は、砲撃でこうして割れたのですが、
木たちはその上に根っこを広げているわけです。

米軍が上陸したときここから見ると、真っ黒にアメリカの艦隊が海を埋め尽くしていました。
アメリカ兵は上陸すると、はじめはピクニック気分で嘉数まで進んできましたが、
日本軍の攻撃が始まると、激しい戦いとなりました。

当時の日本軍は、一度下された命令は絶対で、臨機応変に戦うということができませんでした。
そこに敗因があったのかも知れませんね。
「ここからまっすぐ突撃せよ」と言われたら、撃たれようが何しようがそうするしかないわけです。
ただ、そんな日本軍の反撃を米兵は恐ろしがったようです。
撃っても撃っても同じ所から次々にわいてくる日本兵を、恐ろしいと感じたんでしょうね。

浦添がやられてからは、米軍は首里を攻めました。
南部での戦いが掃討戦とすると、この地は最も本格的な戦闘でした。
私は当時14歳で、鉄血勤皇隊というところにいましたが、米軍の攻撃にあって北に逃げました。
べつに、なにか考えがあって北に向かったわけではないのです。
あたりは砲弾が飛び交い、木々がなぎ倒され真っ白でした。
方角なんて分からなかったのです。

それがかえってよかったのでしょう。捕虜にもならずにすみました。
あとになって収容所をこっそりと訪ねると、友だちが捕まっているわけです。
皆は「もうどこにも行くんじゃない、ここにいなさい!ここは安全だ。」と言いましたが、
「おまえらは国賊だ!」と言い、私は収容所をあとにしました。

生きて虜囚の辱めを受けるなと教えられていましたからね。
その時は、本当にそう思ったのです。
だから、教育というのは恐ろしいものだなぁって、今でも感じますよ。

島袋氏より聞き取り後、整理させていただきました